97年4月後半

ゴエモンは、益々痩せてしまった。まるで骨格標本に毛皮を被せたようだ。足取りもヨロヨロとなり、座っていても今にも倒れそうにフラフラしている。それでも食欲だけは相変わらず衰えない。ただ、歯を抜いたのが良かった様で出血は殆どしなくなった。少なくとも、もうスプラッタ猫にはならずにすみそうである。

だが、下顎のずれがさらに進み、下顎の右側の牙と上顎の左側の牙が完全に一直線にならんでしまった。当然今のゴエモンにとって餌を食べる事は大変な重労働となる。餌を舌で舐め取ることができないので、咥えたあとに頭を後ろに振りその反動で口の奥へ送り込もうとする。

これはつらい。体重が落ちて体力が無いので、頭を振り上げた反動で自分が後じさってしまう程だ。注射器で餌を押し込む作戦はやはり無理なので、箸を使って餌を寄せて口の中へ送り込んでやる。これだと少しは食べられるようだ。排泄物も量は少ないがちゃんと出ている。だが体力がもたず、1度に食べられる量が極端に減ってしまった。

その結果、今までは1日2回だった食事が、5回6回となった。餌を催促する度に口元に餌を持っていき、箸で介助する。ところが。この後に及んでまだ餌の選り好みをする奴なのだ、こいつは。昨日は食べた餌を今日は食わないなんてことを平気でする。

さすがにあきれたが、ただでさえ普通のバカなのにそこへ飼い主バカがプラスされてしまった我々は、ゴエモンの要求を全てのんで次々と新しい缶詰を開けていく。おかげで冷蔵庫の中は口の開いた猫缶だらけになってしまった。その内在庫処分で人間の晩飯に出てきそうである。

ここへきてゴエモンが驚くべき行動をとった。なんと、私の膝の上に乗ってきたのだ。前にも書いたが、ゴエモンは抱かれるのが大嫌いな猫で無理矢理膝に乗せても20秒とじっとしていない。そいつが自ら膝に乗りくつろいでいるのだ。14年飼っていてこんなことは初めてだ。

両親に聞いてもそんなことは1度もなかったと言う。飼い主としては嬉しいが、この豹変ぶりは状態が状態だけに素直に喜べない。

「いよいよか。」

腫れ上がった顎を私の膝に乗せ、目を閉じて喉を鳴らすゴエモンの背中を撫でながらそんな思いが頭を過ぎる。が、すぐに

「そうか、そうか、お前にもやっと膝の気持ち良さが分かったか。」

と思い直してさらに頭や背中を撫でてやる。そのとき、ゴエモンの足の裏、肉球がとても冷たいことに気づいた。もともと肉球はそんなに暖かくはないが、それでも冷たいと感じるような場所ではない。それがズボンの生地越しでもひんやりと感じられる。手で握ってやるが、一向に暖かくならない。再び嫌な予感が体中を通り抜けていった。

それからしばらくしてゴエモンの容体が急変した。いつもの様に餌を食べている最中にいきなり前足が震え出し、そのままへたり込んでしまったのだ。前足を伸ばし顎は完全に床に着いてしまい、後ろ足以外は全身伸び切った形で荒い息をしている。

そんなゴエモンの姿は初めてだった。たとえフラフラになろうと、長い尻尾をくるりと巻いて、きちんと揃えた前足の上に乗せて座る猫だったのに。ついに来るべきときが来た。私達はそう思った。階下の両親に、最後になるかも、と伝えた。

しばらく皆でゴエモンを囲み、声を掛け続けた。すると、しばらくして起き上がった。いつもの様にきちんと座ろうとしている。体は震え続けているが、意識ははっきりしているようだ。顔を上げ弱々しく鳴いた。そして、再び餌を食べようとし始めた。

どうやら食事に体力を使い果たしへたり込んだらしい。少し回復すると空腹が勝ったのだろう、餌を食べ始めたのだ。天下無敵の食欲である。しかし体力がどん底なのは間違いがなく、かなり危険な状態だろう。こうなると、ゴエモンの食欲だけが頼りである。

翌日、病院へ行き、先生に相談をした。先生は、

「食べられなくなれば点滴や、胃にチューブを入れて流動食を流し込むこともできますが、どうされますか。」

とおっしゃった。もしゴエモンの病気が治るものならば私達はためらわずお願いしただろう。しかし癌である。無理矢理栄養を補給しても、違う苦しみが長引くだけである。今の痩せ方を見ていると、これ以上ゴエモンに苦しい思いはさせたくなかった。

「ゴエモンと私達だけでやってみます。」

こう先生に答えて家へ帰った。それから毎晩ゴエモンは私の膝の上に乗ってきて私と一緒に寝た。

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