1.アメリカ合衆国皇帝

1859年9月のある日、「サンフランシスコ・ブレティン」紙の1面にアメリカ合衆国皇帝の宣言文が掲載された。皇帝の名前はジョシュア・エイブラハム・ノートン。この後、彼は20年にわたってアメリカ合衆国を治める皇帝となるのである。

ノートンは1819年にロンドンで生まれ南アフリカで育った。後にブラジルへ渡り1849年11月、サンフランシスコへ移り住み不動産業などを営む。おりからのゴールドラッシュで商売繁盛、4年程で彼はちょっとした金持ちになることができた。

しかし、その2年後、米の相場で手痛い失敗をした彼は破産へと追い込まれる。それからしばらくの後、くだんの「宣言文」が掲載された。同紙の編集長が彼に初めて会ったとき、彼は陸軍大佐の服を着ていた。そして編集長にこう言ったのである。

「余はアメリカ合衆国の皇帝である。」

洒落っけのある編集長は、彼の宣言文の掲載を快諾した。そして、2度目の声明で彼は、議会の廃止と帝政を布くことを宣告。市民は大喜びで彼の宣言を受け入れたが、合衆国政府は完全な黙殺でそれに応えた。

この無礼に対してノートン皇帝は、陸軍最高司令官に「軍隊を進攻させて議事堂をかたづけるように」と命令を発したが、どういう手違いか、実行はされていない。

合衆国各州には「皇帝に敬意を表し、種々の法律的問題を改正するために」サンフランシスコへ代表団を派遣するよう、との命令が出された。また、ノートン皇帝は、自らが「メキシコの保護者」の任にも就く、という布告も出した。

皇帝は毎日午後になると2匹の犬を連れ町へ出かけ、臣民の敬礼に鷹揚に応えながら街の下水や市街電車のチェックをして歩くのが公務となっていた。

劇場は皇帝の為の特別席を設け、観客は彼が現れると敬意を表し、起立して迎えた。彼は皇帝だったので、食事・宿泊は当然、全て無料であった。

セントラル・パシフィック鉄道は、皇帝閣下に食堂車で無料の食事を差し上げるのを断った為に、皇帝から営業停止を宣告され、慌てた鉄道会社は終身無料パスを謹んで皇帝閣下に献上し、営業停止処分を解いてもらった。

またある新米警官が皇帝を浮浪罪で逮捕したときは、サンフランシスコ全市民が猛烈な抗議を行い、警察署長がお詫びとともに皇帝を釈放するという事態になった。

1861年に南北戦争が勃発すると、皇帝は仲介の労を取るべく、リンカーン大統領と南軍のデービス将軍をサンフランシスコに召喚したが、恐れ多いことに、二人ともそれに応じることはしなかった。

皇帝はなぜか現金にはいつも不自由していたので、税金を徴収することにした。税率は小売店が週25セントから50セント、銀行は週3ドルというものだったため、市民の大半は大いに納得し、腹を抱えて笑いながら忠実な納税者となったのである。

皇帝の礼服が古くなったとき、彼は「自分が今着ている礼服は国民の恥であるという臣下の声を聞くことが度々ある」という、新たな声明を発した。翌日、サンフランシスコ議会は皇帝のための新しい礼服を作る予算を計上した。

1880年1月8日に皇帝が崩御されたとき、彼との別れを惜しみ2日間に渡り、1万人の市民が告別に訪れた。

1934年、彼の墓に大理石の墓標が立てられた。碑文には

「アメリカ合衆国皇帝 メキシコの保護者ノートン1世 ジョシュア・A・ノートン」

とある。彼の死亡記事に書かれた

「彼は誰も殺さず、誰からも奪わず、誰をも追放しなかった。彼と同じ称号をもつ者で、この点において彼以上の者はいなかった。」

という言葉が彼の魅力の全てを物語っている。

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