2.匿名希望の旅人

1907年のある日のロンドンで、アメリカの大金持ちジョン・ピアモント・モーガンとイギリス貴族のロンズデール卿の間にひとつの賭が成立した。すなわち、

「顔を見せることなく世界中を旅することができるか」

というもので、モーガンはできないと言い、ロンズデールは可能だ、とお互いに譲らず、結局10万ドルを賭けての勝負となった。実際に旅をするのはハリー・ベンズリーという、31才になる独身の投資家が進んで買って出た。

ルールは厳重に決められたが、中でももっとも厳しいものが、どのような時も鉄でできた仮面を着用すること、という項目だった。まるでデュマの「鉄仮面」さながらである。

その他に

・出発時の所持金は1ポンド
・着替えの下着以外は携行してはならない
・乳母車を押して移動すること
・旅行中に、妻となる女性を見つけること

などが決められた。道筋はイギリスの特定の町数カ所及び18ヶ国125都市が指定され、旅費は絵はがきを売って稼ぐこととされた。

1908年1月1日、ハリーは2kgの鉄仮面を着け、90kgの車輪が付いた乳母車を押し、群衆の見送りの中、旅だった。

イギリスのニューマーケット市で開催中の競馬場に行ったときには、ちょうど来ていた国王エドワード7世に出会い、絵はがきを5ポンドで買ってもらった。国王は署名を求めたが、身元がばれてしまうため、ハリーは断らざるを得なかった。

また、無断で絵はがきを売った罪で逮捕されたときも、理由を聞いた判事が「鉄仮面」の名で裁判を行い、わずかな罰金刑ですませてくれた。

ハリーは6年間でニューヨーク、モントリオール、シドニーなど12ヶ国を訪れ、その間に200通を越す求婚の手紙を女性達からもらった。中には歴とした貴族の女性からのものさえもあったが、彼はその全てを断って旅を続けた。

1914年8月、旅に出てから6年半後、彼はイタリアのジェノバに着いた。あと数カ国でゴールである。しかしそのとき第1次世界大戦が勃発してしまった。彼は熱烈な愛国者だったので、祖国イギリスのために入隊しなくてはならないと考え、旅の中断を決意した。賭は終わったのである。

ハリーは賭の残念賞として2万ドルを受け取ったが、全額を慈善団体に寄付してしまった。その後戦争には生き残ったが、彼の投資先であったロシアの革命により財産の殆どを失い、1956年小さなアパートでこの世を去った。

彼の旅は、猿岩石より厳しいものであったことだろう。

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