1.気持ちいいこと三題

 気持ちいいことって沢山あるけど、「ベスト3」をあげろと言われたらあなたは何を思い浮かべるだろうか。

 私の場合はまず、「痒いところを掻く」である。蚊にさされた所に爪で十文字の跡をつけてから掻くと気持ちいいこと気持ちいいこと。そのためだけに蚊の養殖をしてもいいかなと思うくらい。管理して養殖すれば無菌蚊が作れそうだし、もしかしてビッグビジネスになるかもしれん。

原律子の漫画に、室内プールで養殖した大量の蚊に全身を食われまくったあと、そのプールにキンカンを満たして飛び込むとさぞ気持ちよかろう、というのがあったが、これはよくわかる。私はキンカン塗るより亀の子たわしで全身ガシガシこする方が好きだけど。

 洗髪を1ヶ月くらいがまんして頭が割れそうな程痒くなったころ丸刈りにして頭皮を思い切り掻きむしる、というのにも抗い難い誘惑を感じるなぁ。正しい人生を送るために必要なものを全て失う覚悟ができたら私、やるかもしれません。

 とろろが口のまわりにつくととても痒くなる、という人がいるけど、不幸なことに私は全然痒くならない人だったのだ。洗面器一杯にすりおろしたとろろで洗顔しても大丈夫、いや、風呂桶一杯のとろろに全裸でつかっても平気かもしれない。ああ、悲しい。

子供のころ漆に触ってしまいかぶれた経験があるが、これは痒かったなぁ。でも包帯ぐるぐる巻きにされたので掻くことはできなかった。掻けない痒みはとてもつらいので嫌いだ。筒井康隆の「俗物図鑑」に登場する皮膚病評論家芥山虫右衛門の心境には到底及ばないが、ちょっとあこがれてしまう。

 「痒みどめ」が薬局で売られているのだから、「痒みだし」も販売しないかな、と思うことがよくある。刷り込む量によって自在に痒さを調節できればいつでもどこでも好きなだけ掻くことができる。これ、売れると思いませんか。

 次に気持ちいいのは、「くしゃみ」だな。花粉症に苦しむ方々には、何をぬかすこの脳天気野郎、と言われてしまいそうだけど、人目を気にせず思い切り爆発させるくしゃみはそれはもう気持ちいいことこの上なしである。

 人為的にくしゃみを起こす方法は、我が身を犠牲にした幾多の先人達により今に伝えられているが、私の場合100%くしゃみが出るのは「鼻毛を抜く」という方法につきる。こよりで鼻腔を刺激する方法も一般的だが、これだと時間がかかるし、くしゃみを誘発する確率が落ちてしまう。

 その点、「鼻毛抜き方式」は1本か2本の鼻毛を抜くだけで確実に気持ちよくなれるのでお手軽便利でお勧めです。私は常に2〜3本はストックしている。さすがに鼻の穴から飛び出させたまま女性に会う程枯れてはいないので、ちょっとやそっとじゃ見えない鼻の奥の方だけど。指が届かない場合はもちろんピンセットを用いて抜くが、持ち歩いてはいないのでご安心を。

 体のメカニズムとして、くしゃみにもっとも近いのは性的な絶頂感だそうである。どちらも緊張の爆発的な緩和という点で似通っているらしいが、なるほど、くしゃみが気持ちいいわけだ。

 では堂々の気持ちいいこと第1位はと言えば、「我慢に我慢を重ねたうんこを一気に放出したときの爽快感」につきるだろう。幸か不幸か私は便秘体質ではないので、高速道路での渋滞など、意識的に我慢をしなければならない状況が圧倒的に多いが、その後のあの解放感はちょっと言葉では言い表せない。それは同じく我慢を重ねたおしっこの比ではない。と思うのは私だけではあるまい。

 今までで一番気持ちよかった排便は、私がまだ一人暮らしをしていた20代前半のある日の排便であった。その日、一人の女性から電話があった。その女性は、私が常日頃「もっと親しくなりたいなぁ」と感じていた人なので、少しでも長く話をしていたいと思うのは素直な気持ちの表れである。実は電話がなる直前、私はトイレに向かうところであった。留守番電話が普及する前のことで、当然私も持っていなかった。しばしの逡巡の後、受話器を取ったが、それが彼女だったのだ。

 少しでも長く話したい、との希望通り、なぜか話が盛り上がった。用件らしい用件もない電話だったが、得てしてこういう方が長電話になりやすい。最初はさざ波のように柔らかく寄せては返していた便意が、やがて大波となって私の下腹部を襲い始めた。その間隔も次第に狭まってくる。今ならコードレスホンの子機をトイレに持ち込む、という緊急避難も可能だが、当時は望むべくもない。しかし。限界をさらに越えた限界に私は耐えた。まるでスーパーサイヤ人の様だ。

 「じゃぁまたね、週末にでも飲みに行こうや。」と、我が身を襲う猛烈な便意などおくびにも出さずさわやかな声で私は受話器を置いた。そのとき、額にはいやな脂汗が浮かび、下腹部の鈍痛は激しく、腸内では噴火寸前のマグマの様に大便が不気味な鳴動を繰り返していた。

 ぎりぎりまで便意を我慢すると、人間というものは一歩も歩けなくなるものだ、ということをその時はじめて知った。本当に動けないのだ。下腹部に伝わるどんな小さな振動も大噴火を引き起こしそうになり、拳を握りしめて進退窮まってしまった。いっそ人間としての尊厳を捨ててここで・・・という甘い誘惑に身をまかせかけたが、掃除するのも私だという事実に気づき、危うく踏みとどまった。

 既に直立していることも不可能となり、腹這いとなる。最後の忍耐力を振り絞り、じわじわと匍匐前進を始める。早くトイレに行きたい。でも素早く動けない。しかしもたもたしてられない。究極のジレンマに陥りつつも体は少しずつトイレに近づいていった。そして永劫の時が過ぎ去ったかと思う頃。ついに私の目の前にトイレのドアがその神々しい姿を現した。精神力の勝利である。人類の尊厳の勝利である。生命ばんざい!

 思わず、なせばなるなさねばならぬなにごともならぬはひとのせざるなりけり、という言葉が浮かんできた。正しいかどうかまでは検証している余裕はなかったが。

 しかし。試練はまだ続いていた。トイレのドアを開けるためには立ち上がらなければならない。さらに便器の蓋を上げ、ベルトをはずしズボンとパンツを脱ぎ、便座に腰掛けるという作業が待っていたのだ。それはその時の私にとっては、フルマラソンを走り抜いて、ゴールと同時に縫い針の穴に一発で木綿糸を通すがごとき、実現不可能なことに思えた。

 はやる気持ちと肛門を押さえ、横になったままベルトをはずし、括約筋に穴も塞がれとばかりに力をこめ慎重に体を起こす。ドアを開け、便座の蓋を上げる。おお!便器が見えた!後はあそこに座ればこの地獄の苦しみから解放される!私の緊張はやや緩んだ。

 そう思ったらズボンとパンツがまだだった。一旦緩んだ緊張は元には戻せない。脳は既にスタンバイOKの信号を送ってしまった。その信号は今脊髄を走り抜けようとしている。あとはスピードの勝負となった。チャックを降ろしズボンとパンツを一緒にずり下げつつ、便座に座る体勢をとる。しかし、このときまさに急激な運動により励起された最大の鈍痛が下腹部を襲ったのだった。ああ、絶体絶命!その運命は果たして?

 ・・・・・・間に合った。服もトイレも汚すことなく大便はあるべき所に勢いよく落下していく。その時の解放感、安堵感、そして今まであんなに苦しかった腹痛が嘘のように引いていくさわやかな感覚。この世の至福である。こんなに気持ちいいことが世の中にあったのか。人体の神秘をしみじみと実感した一瞬であった。

 ことほどさように我慢したうんこを一気に放出するのは気持ちいいのである。残念ながら私はまだまだ未熟なため、自らの克己心のみでここまで我慢することにこの後は成功していない。精進々々。

 この気持ちよさは風呂井戸じゃない、フロイトの言う肛門性愛に通じる、などと分析する方もいるやもしれないが、下痢のときや間に合わなかった場合はただただ悲惨なだけでちっとも気持ちよくないことを付け加えておく。

さあ、みんなも明日から我慢して気持ちいいうんこをしよう。

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