3.しあわせの可能性

お、よく来たね。まぁこっちへお上がりな。いいよいいよ、挨拶なんかいいから、さぁさぁ。それにしても久しいね。達者にしてたかい。そうかいそうかい、おかみさんも元気かい。そりゃなによりだ。おーい、ばあさん、お茶持っといで。え。そうじゃないよ、けんぼうだよ、けんぼうが来たんだよ。あ、酒の方が良かったかな。おーい、お茶はやめて酒にしておくれ。そうだよ、冷やでいいんだ。そうだったな、けんぼう。で、今日はなんだい。どうせおまえのことだから何か頼みごとがあってきたんだろ。いいよ、判ってるから。だいたいけんぼうがあたしのところに来るのは、金の無心か夫婦喧嘩の仲裁と相場は決まってるんだ。いいよ、遠慮しなくても。仲人といえば親も同然て言うだろ。あたしぁけんぼうが可愛くて仕方ないんだ。あたしら夫婦は子宝に恵まれなかったからねぇ。けんぼうがまだこんな小さなころ隣に引っ越してきて、それからおじさんおじさんってあたしになついてくれたろ。嬉しかったねぇ。いいよ、金かい。どうせあたしら年寄りが持ってたって仕方ないんだ。何に使うのかなんて野暮はきかないよ。いくら要りようだい。え。違う。金の無心じゃない。それじゃ、夫婦喧嘩かい。まったくあれだけ好きあって一緒になったのに、なんだって喧嘩なんかするのかねぇ。一緒になれなきゃ天神様の橋から二人で身を投げて死んでやる、ってさんざあたしたちを脅したじゃないか。そりゃぁ確かにみんな反対したさ。いやいや、身分がどうのじゃぁない。みんなけんぼうが好きだったんだ。だから反対した。あの娘はあんたには合わないと思ってたんだ。いや、だからあのときはだよ。今はちゃんとわかってるよ、あんたらが似合いの夫婦だってことは。それなのになぜまた喧嘩なんか。どうせつまらない理由なんだろ。前だってそうじゃぁないか。ほれ、あの時だよ、せっかく私が買ってきた揃いの夫婦茶碗をけんぼうが使ってくれない、って言ってかみさんが泣きながらあたしんとこへ来たときだよ。おまえに聞いたらあんな小さな茶碗じゃまどろっこしいてんで丼でおまんま食ってたそうじゃないか。少しは女心ってものをわかってやらなきゃいけないよ。だいたいけんぼうは昔から、え。その説教は前に聞いた。反省してる。そうだよ、それでいいんだよ。小さな茶碗でもおかわりをすりゃぁいいんだからね。それも聞いた。じゃぁ、今度の喧嘩は何が原因だい。あれ。喧嘩じゃない。それじゃぁおまえさん、何しに来たんだ。なに、子供ができた。今六ヶ月。ばかだね。それを早く言いなさい。そんなおめでたいことをなぜだまってたんだ。話す隙がなかった。そうか。それは悪いことしたね。そうかいそうかい、子供ができたかい。そりゃめでたい。おーいばあさん、けんぼうに子供ができたよ。ばか、まだ生まれちゃいないよ。はやいとこ行って尾頭付きやらなにやらとにかくおめでたいものみんな買ってらっしゃい。いいんだよ、めでたけりゃなんでも。まったく気が利かない。それにしてもよく知らせてくれたね。え。それについては頼みがあるって。なんだ、言ってみなさい。金かい。いいんだよあたしら年寄りが持ってても、なにそれはさっき聞いた。そうだった。じゃあなんだい。ふんふん。名付け親。あたしにけんぼうの子供の名付け親になってくれだって。あああ、嬉しいねぇ。こんなに嬉しいことはけんぼうが初めての給金でらくだを買ってくれたとき以来だよ。長生きはしてみるもんだねぇ。いいよいいよ、いいともさ。喜んで名付け親やらせてもらうよ。どっちかわからないから男と女と二通り考えておくよ。あれ、そういやまだだいぶ先なのになんだってこんなに早くに。なに。おとつい湯屋で留に会ったときに、あたしがもう長くないようだって言ったって。それで死ぬ前にあたしに。留の奴なんだってそんなでまかせを。そうか、あれだね。ここんとこ留はあたしに勝てないんだよ。3目置いても勝てない。スランプってのかい。それで腹いせにそんなでまかせを。いやな奴だねあいつは。こんど会ったらただおかないよ。とっちめてやる。だけど本気にするけんぼうもけんぼうだよ。あたしがそんなだったらおまえの耳に入らないわけないだろう。え。そうかとも思ったけど万が一ってことがあるから。どうしてもあたしが考えた名前を子供につけたかったって。泣かせるじゃないか。よし、まかしとくれ。せいぜいいい名前を考えてあげるよ。さぁ、用件はすんだだろ。もうじきばあさんが尾頭付き持って帰ってくるから、今日はゆっくり飲もうじゃないか。まったくなんてめでたい日なんだろうねぇ、今日は…。

こんな年寄りに私はなりたい。

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